アマプラビデ王の日々

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怪物~ラストシーンと、私なりの「怪物」解釈

怪物

怪物

 

おそらくこの映画のラストが気になった人が多いと思う。私もこの終わり方はかなりインパクトがあると思ったので、まず初めに私なりの解釈を書き留めておく。

 

正直に言ってとても後味が悪い映画だった。思春期にも満たない幼い子供たちが自分を知った直後に亡くなってしまうのだから。

 

なぜ亡くなったと断言できるのか? 

それは子供たちがいるはずの電車の中に、彼らがいなかったということ、それからラストシーンで大人たちはみな雨に打たれているのに、子供たちは快晴の中を走り回っていたということ。この2点でそう結論づけた。 

 

そしてもう一つ。怪物が何だったのかが明示されていないのも、この後味の悪さに貢献していると思う。ただ、これについても、「私は怪物なんていなかった」と判断している。


親、教師、そして社会が「怪物」を生み出す?

怪物は何か?ということには作中には触れられておらず、インディアンポーカー(自分の頭の上に紙をかざして、相手の頭に何があるかというのを当てるゲーム)を通じて、正体のわからないもの、つまり怪物について話をしています。

 

ある日突然現れた自分自身の奇妙な気持ち、頭の中とちぐはぐな行動、自分の中の得体のしれないものを怪物に例え、おびえてしまう。だけども正体がわかってしまえば怪物でもなんでもない。カタツムリだったり、ブタだったりどこにでもいるありふれた存在となる。

 

特に、母親が「普通の幸せ」を望んだこと、そして校長先生の「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもない、しょうもない。誰にも手に入るものをしあわせっていうの。」という一言は、彼らに重くのしかかったのではないでしょうか。

 

子供たちが抱える、先生にも両親にも分かってもらえないこの複雑な気持ち。母親の幸せ、依里(より)の幸せ、依里の父親、先生、そしてクラスメイト。みんなの幸せを願うあまり、口に出すことができなかったのでしょう。

 

観る価値あり!「怪物」が問いかける、あなたの「怪物」とは?

クラスで二人が絵具だらけになるシーンも印象的でしたね。あのカラフルな絵具は、彼らの心の中にある多様性を表現しているように感じました。「そんな気持ちに僕もなるよ」というセリフから、依里はもっと前から自分の心の変化に気づいていたのでしょう。依里がやたら中性的に表現されていた点についても、ストンと腑に落ちます。

 

その「異質なもの」に敏感に気づき、残酷な言葉を浴びせるクラスメイトたち。彼らの無邪気な残酷さもまた、ある種の「怪物」なのかもしれません。

学校の隠蔽体質、過保護なモンスターペアレント、学校でのいじめ、そして父親からの虐待。物語は最後まで何が「怪物」なのかを絞らせないまま進み、全く展開が読めない秀作でした。

 

映画のあらすじ:視点が変わるたび、「怪物」の姿も変わる

是枝裕和監督、坂元裕二脚本という、日本映画界の巨匠たちが織りなす「怪物」。ある小学校で起きた子供たちのトラブルを巡り、それぞれの視点から「怪物」の正体が炙り出されていくヒューマンドラマです。観る人の心に深く残る問いかけと、多層的な物語が魅力の本作は、あなたにとっての「怪物」とは何かを問いかけます。

 

この映画は、一つの出来事を複数の登場人物の視点から描くことで、観客に「真実とは何か?」と問いかけます。ある小学校で、担任教師と生徒の間にトラブルが発生。いじめか、それとも事故か。事態は保護者、学校、そして子供たち自身を巻き込み、複雑に絡み合っていきます。一体、誰が「怪物」なのか。そして、子供たちはどこへ向かうのか。観る者の予測を裏切る展開に、最後まで目が離せませんでした。

 

あなたにとっての「怪物」とは何だったでしょうか?ぜひ一度、この作品を観て、ご自身の心と向き合ってみてください。