第1章に続いてみました。
想定はしていたものの、やっぱり2章は見るのがつらかった。
いやいや、つらいってレベルではありませんでした。
見ていられないというのが正しい表現です。
女性と小さな子供達が集団で命を絶つところは涙なしには見られない。
なぜ?なぜそうまでする必要があるのか。
せめて子供達だけでもと思う私は間違っているのでしょうか。
でも、彼女たちはそれが生き方なんですよね。幸せか不幸せかは決して私たちが決めてはいけない。
かろうじて命を助けられた彼女が「なぜ、私を逝かせてくれなかったのか」というシーンは、ずしりと胸に響きます。
あれだけの軍事力の違いを見せられたら絶望するしかないでしょう。
無謀といってしまえば元も子もありませんが、それでも武器を持ちゲリラ作戦で日本兵と戦うセディック達。
実際はほとんど犬死だったと思いますが、映画ではセディック族は勇敢な兵士として描かれ、日本人は腰抜けとして描写されています。
まあそんなもんでしょうからその演出は別にいいです。
日本人の取った作戦で許せないのがセディック同士で争いをさせたことです。
軍事戦略的にはとても効率がいいのかもしれませんが、さすがにあれはむごすぎる。
彼らが戦うのは自分自身の名誉のため、そして家族が先祖、狩場のためで、小銭を稼ぐためではないのです。
それをうまい具合にすり替えて部落同士でけしかける。
「もう戦いたくない」といったのは、彼らが臆病だからではなく、自分自身のポリシーに反しているからです。
それから頭目のモーナ・ルダオ。
第2章では彼の動きもとても気になりました。
当初日本兵と戦うことはせず、彼はとにかく隠れているように見受けられました。
一度派手に戦うシーンはありましたが、それだけ。
そして最後は一人でどこかへ消えてしまいます。
ちょっとずるい。彼はセディック族の中ではかなり影響力がありました。
無条件で降伏し、今回の暴動の全責任を負えば助かった命はあったのではないかと思いますが、彼はセディック族の長としての死を望んだんでしょうね。
「私は捕まるわけにはいかない」というセリフがありましたが、彼はこの事件がきっかけで、セディック族が事実上滅んでしまうということがわかっていたのだと思います。
長年受け継がれてきた文化や彼らの生きざまが消えてしまうのです。
勇敢だった頭目のままで終わらせたかったが故の行動なのでしょうか。
結局のところ、数年後に山中で発見されるのですが、自殺かどうかすらわからないとのこと。
私はたった一人で最後まで生きようとしたのではないかと思います。
毎日何となく過ごしている自分が情けなく思えてきます。
命を懸けてまで守りたいポリシーがあるかといわれると、正直なところ口を閉ざしてしまいます。
目的もなく生きることに対して疑問を感じてしまうとても良い1本だったと思います。
恥ずかしながらこの映画で初めて霧社事件をしりました。
まだこの事件が発生して100年経っていないのですから驚きです。
セディック・バレとは現地の言葉で真の人という意味です。
久々に強烈におススメしたい1本でした。