第1部に続いて観ました。
想定はしていたものの、やはり観るのが辛い、いや、見ていられない、というのが正直な感想でした。特に、女性と小さな子供たちが集団で命を絶つシーンは、涙なしには観られません。なぜ、なぜそこまでする必要があるのか。せめて子供たちだけでも、と思う私は間違っているのでしょうか。
でも、彼女たちにとってはそれが生き方であり、幸せか不幸せかは私たちが決めるべきことではない。かろうじて命を助けられた女性が「なぜ、私を逝かせてくれなかったのか」と語るシーンは、ずしりと胸に響きました。
セディック・バレ(全2編)のおさらい
2011年に公開された『セディック・バレ』(原題:賽徳克·巴萊)は、台湾のウェイ・ダーション監督が手がけた歴史映画です。日本統治時代の台湾で、先住民族セディック族が蜂起した霧社事件(1930年)を題材にしています。第1部「太陽旗」に続く第2部「虹の橋」では、蜂起したセディック族が、圧倒的な軍事力を持つ日本軍との絶望的な戦いを繰り広げ、悲劇的な結末を迎えるまでを描きます。セディック族の誇りと、彼らの文化や生き様が、壮大なスケールで描かれた作品です。
絶望的な戦いと、男たちの名誉
日本軍との圧倒的な軍事力の違いを見せつけられ、絶望するしかない状況。無謀と言ってしまえばそれまでですが、それでも武器を持ち、ゲリラ戦で日本兵と戦うセディック族の姿が描かれます。実際はほとんど犬死だったと思いますが、映画ではセディック族が勇敢な兵士として、日本人は腰抜けとして描写されています。まあ、そういう演出は、それぞれの歴史観があるので、いいでしょう。
しかし、許せないのは日本人がとった作戦です。セディック同士で争いをさせたこと。軍事戦略的には効率的だったかもしれませんが、あまりにもむごすぎる。彼らが戦うのは、名誉のため、家族のため、先祖のため、そして狩場のためであり、小銭を稼ぐためではありません。「もう戦いたくない」と言ったのは、彼らが臆病だからではなく、自分たちのポリシーに反する行為だったからです。
頭目モーナ・ルダオの選択
第2部では、頭目のモーナ・ルダオの動きが特に気になりました。当初は日本兵と戦うことはせず、隠れているように見受けられましたが、最後は一人でどこかへ消えてしまいます。これはちょっとずるい、と感じました。彼はセディック族の中でかなり影響力があった。もし彼が無条件で降伏し、今回の暴動の全責任を負えば、助かった命はあったのではないでしょうか。しかし、彼はセディック族の長としての死を望んだのでしょう。
「私は捕まるわけにはいかない」というセリフがありましたが、彼はこの事件がきっかけで、セディック族が事実上滅んでしまうことがわかっていたのだと思います。長年受け継がれてきた文化や生き様が消えてしまう。勇敢な頭目のままで終わらせたかったがゆえの行動だったのかもしれません。
結局、彼の遺体は数年後に山中で発見されますが、自殺かどうかすらわからないとのこと。私は、たった一人で最後まで生きようとしたのではないかと思います。
毎日何となく過ごしている自分が情けなく思えてきます。命を懸けてまで守りたいポリシーがあるか、と問われると、正直、口をつぐんでしまいます。目的もなく生きることに対して疑問を感じてしまう、とても良い一本でした。
恥ずかしながら、私はこの映画で初めて霧社事件を知りました。この事件が発生してからまだ100年経っていないのですから驚きです。セディック・バレとは、現地の言葉で「真の人」という意味だそうです。久々に強烈におすすめしたい一本でした。
第1部太陽旗はこちら
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